白木果樹園の歴史

 
【1900年頃~昭和初期】
 
白木家の本家より譲り受けた畑に生えていた、一本の小さな小夏の木。
この木がまさに白木果樹園のルーツとなりました。
昭和初期には高知県の果樹試験場にて「法元文旦」の名で作られた木が、高岡郡戸波村宮内(現:土佐市宮ノ内)の宮地文弥氏により当地へと植え付けられ、御子息の正憲氏、和夫氏兄弟が栽培の基礎を築いたことで、今に続く「土佐文旦」が産声を上げます。
 
【太平洋戦争終結後】
 
祖父(故・義英、衛子の婿養子)が水稲や芋を中心に栽培していました。
昭和30年ごろには、さらにタバコや果樹(金柑や梅、柿、梨、八朔)を植え付けます。
当時、温州みかんが全盛で、国からの生産援助なども行われていましたが、先々には大暴落するとの予想をたて、雑柑・晩柑類の植え付けに舵を切っていったという経緯がございます。
ブンタンも当初はわずか10本の木だけでしたが、母・久子、父・丈夫(婿養子)が土佐文旦 に魅せられて、昭和37年頃より土佐文旦の植え付けを大量に行いました。
 
【昭和40年台】
 
この頃には宮ノ内地区が高知県で一番の文旦生産量となり、品質も群を抜くようになります。
昭和47年頃土佐市戸波地区の有志8名で「光研究会」という、文旦を中心とする生産研究会を発足し、市場では「文旦」と言えば光研究会!と言われるまでになりました。
(現在も光研究会は6名で存続しています)
 
【昭和50年台】
 
二代目丈夫が肝臓や胆のうの病に倒れてしまい、突如経営が危ぶまれましたが、初代義英が踏ん張り何とか持ちこたえます。
そして昭和56年、苦しい園の状況を打破すべく、三代目浩一(現園主)が高校卒業とともに後を継ぐ決意をしました。
しかしその矢先の同年2月28日。追い討ちをかけるように五六豪雪の寒波が襲来。
文旦畑はもろに被害を受け、残った文旦の木は僅か、まさに壊滅的被害となりました。
初代義英、三代目浩一が途方に暮れかけていたところ、丈夫がなんとか病床からの復帰を果たし、三代で力を合わせて復興に努めた結果、なんとかこの苦難を乗り切ることができました。
 
【そして現在に至る】
 
三代目浩一が園を継ぐと同時に宅配販売を開始。昭和58年には温室文旦の栽培を県下でも最初の方に手掛けます。
昭和60年頃はショウガも大量に生産、販売していましたが、平成5年にショウガの生産をやめ果樹生産にほぼ絞りました。
現在では土佐文旦を中心に約2,000本の果樹園となり、季節の文旦類(春:土佐文旦、夏:夏ぶんたん、秋:水晶文旦、冬:温室土佐文旦)を始め小夏、八朔、金柑、温州みかん等の柑橘類や、梨、梅、ビワ、イチジク、柿、などの果樹類、野菜など約100種類を栽培しています。
中でも土佐文旦は高知県の品評会で農林水産大臣賞を二度も頂くことができました。
今では全国のお客様にダイレクトメールでの販売を行うとともに、1996年11月からは自社のホームページをオープンして販売を開始、2000年からは「buntan.com」の独自ドメインを取得しました。
独自ドメインの自社サイトのほか、2002年から楽天市場にも出店(楽天市場店)、2009年からはアマゾンでも販売をしています。